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【2011/10/20(木)】
■ 秋期アニメ視聴作品一覧
『輪るピングドラム』
『僕は友達が少ない』
『未来日記』
『ひだまりスケッチ×SP』
『僕は友達が少ない』
『未来日記』
『ひだまりスケッチ×SP』
【2011/10/19(水)】
■ 父母はどうして僕を養っているのかと思う。それは意図的なことだろう。社会は今の所ニートに寛容に見える。それは端的に、ニート人口60万人が毎年維持されていることから分かる。ニートは食えているのであり、家族が食わせているのであり、つまり問題は家族の内部で完結している。その為に社会はニートを問題としていないだろう、家族の問題と見ていると思う。
ニートの問題は、一義的には単純にカネの問題と思う。それはマクロ的には、社会のカネの分配の文脈だろう。現在の社会では、富が年長者に偏り、年少者に対するリソースは少ない、ニートが存在するのはその不均衡に対して社会がバランスした結果だろう(ニートの存在(この問題の本丸は非正規雇用者だろう)が他の年少労働者の労働・所得を保障する)(ニートは年長労働者である保護者の所得を分割・吸収する)。だから例えばニートが無職者(求職者)になったら、カネの分配バランスが崩れるから、その時点で社会はニートに辛辣に当たるだろう(現在の不況がそれを裏書きしている)。(ニート問題は、現在と社会が変質するだろう10年20年後では意味が違っていると思う)
社会は、ニートの問題を知的に・合理的に処理しようとしているよう。つまり、彼らは自分の利益を冷静に最大化しようとする。それは表面的にはニートに対する批判的な世論となって現れている。ここにおける利益の最大化の方法は、或いは個々人の人生は社会に依存するだろうと思う。そこで社会はバランスされるのだろう。その利己心が人々に意識されるとき、ニートは家族内に封じ込められ(ニート本人には挫折・メンタルヘルスの問題として)、保護されるのだろう。
【2011/10/17(月)】
■ 柔い身の隅々に埋まる鋼の芯猫よ曲げて伸ばしてにゃあと鳴け【2011/10/16(日)】
■ 晴れ。暖か目。昨夜は雨降り、と少し蒸し暑かった。手湿疹が出ている。ここ少しの間はよく手を洗っていたので刺激になったよう。
ペットボトルアロエを植えてから一年が経った。当初のアロエはこんな風だ。時機を見て鉢に植え替えた方がいいだろうな。
【2011/10/15(土)】
■ 雨上がり。もうみかんを食べている。猫は良く来ている。■ 猫についてだが、母親は猫が好きらしいが、件の猫を家へ招き入れたりはしない。可愛いのは可愛いようだが。他方、母親はコロは散歩に連れて行ったり、餌をやっている。コロは可愛い犬だが、老いも手伝って、比べると客観的には猫の方が可愛いと思う(美醜と言うこと)。
この母親の猫とコロに対する態度の違い、猫への冷淡さに引っ掛かる所がある。両者は共に何かの役に立つわけではない、所謂愛玩動物だが、コロは飼い犬だから面倒を見て、猫は飼っていないからそうしないと言うのは、意図的である。
そこで僕は少し胸が苦しくなるのだが、この冷淡さが翻って僕を食わせているのだろうと思う。僕も犬猫同様、何か役立っているわけではない。僕が食えているのは、意図的な結果であって、当然のことではないな。